調馬索が欲しい馬具担当の書いた小説。
厩舎を出たら変な工事音がしていたのである。
北部構内は工事の騒音が常に凄まじいが、
今日のやかましい音は安息の地であるはずの馬房脇でおこっているのだ。
散歩に行こうと馬道を通っている最中に響いたこの音に反応したおかげで
しこたま怒られてしまったので、ますますこれが気に食わなかった。
そしてこの音は調馬索中にも突如として襲ってきたのである。
梅は再び跳ねた。
丁度索を右はみから左へ付け替えようとしていた粗忽者の索手は、
うっかり馬を離してしまった。
それだけならまだしも、
跳ねた拍子に梅は自分から追い鞭に尻を付きだしてしまったのだ。
梅はごくごく普通の嗜好を持った馬である。
断じてマゾの気はない。
従って、同じ失敗を繰り返して叱られ続けるよりは、
人間の要求をくみ取って言うことを聞き、
さっさと苦痛を終わらせる方を選ぶ。
調馬索中に追い鞭が尻に当たるということは、
大概が「きちんと速歩でくるくる回りなさい」という事を意味する。
騒音と追い鞭という二重の苦痛に見舞われた梅は、
このいやな時間をさっさと終わらせようと、
猛然と索手の周囲を走り始めた。
一方の索手である。
普段落ち着いた馬に油断しすぎて手を離してしまい、
早く捕まえねばと思った途端に
馬が自分の回りに半径4mの美しい円を描き始めたのである。
それは最大級の讃辞を送りたくなるような美しい円であったが、
いかんせん本来馬のはみについているはずの索が自分の手元にある。
そこでやはりこの索の先をはみにつけてからもう一度この素晴らしい動きを再現してもらおうと、走る馬に近づこうとした。
ところが自分が移動するとこの円はその距離だけ正確におなじ方向に移動してしまう。
そして移動した中心軸から半径4mの円を描き続けるのである。
索手は全く気づかなかったがどうやら先ほど取り落とした赤い調馬索とは別の、梅太郎にしか見えない索をいつの間にか持っていたらしい。
しかしこの索は索手はおろか馬場内の人間全てに見えないのである。
すなわち外から見ればこれは立派な放馬である。
それは非常にまずい。
その上自分にも見えないものだから、どう扱ったらいいかもわからない。
なんとか一度走る馬を止めようと、手を伸ばした。
するとこの馬はさらに速度を速め、ついには駈歩で円を描き始めたのである。
何と索手は先ほど尻に当たって慌てて手放した追い鞭の代わりに、
これまた梅太郎にしか見えない鞭をいつの間にか手にしていたらしい。
馬場に馬と二人きりであったらこのまま調馬索運動を続けても良かったのだが、残念ながら馬場内では梅と非常に仲の悪い馬が二頭運動中であった。
この新しい調馬索での練習は諦めて、早く先ほどのいつも使い慣れた調馬索に馬を繋がねばならない。
慣れない索の扱いに困った索手は埒沿いに馬を追いつめてみるが、
行き場のなくなった馬はどんどん円の半径を短くして行くだけで、
一向に止まる気配がない。
馬に轢かれて死ぬことよりも、愛馬の運動に集中する監督の怒りの方が恐ろしかった索手は、決死の覚悟で走る馬の前に飛び出した…
やはり梅太郎は150cmを跳ぶにはまだ早いらしい。
どんどん内方姿勢を深くする代わりに速度を落としていた梅は、
今日は突如現れた障害物を避けるのではなく、
その前で一反抗して走るのをやめた。
…この馬ぜったい自由飛越とか出来そうだなあ。
今度本気でやりましょうか、中村さん?